鹿を見て馬という・…


【質疑】>>馬鹿は明日調べてこよーーっと!

【応答】ふむふむ、さね爺じゃ。  
今から2000よりちと前なんじゃが始皇帝の息子の二世皇帝の即位の言葉で「朕は快楽の限りを尽くして遊んで暮らしたいぞよ」と宣言しよった。

 邪な宦官が鹿を献上して、これは「馬です」と言うので二世皇帝は「いくら朕でも鹿と馬の区別はわかるぞよ、これは鹿じゃろう」と、 まわりの他の臣下にも聞いてみたがみんな邪な宦官が恐いから馬派と鹿派に分かれたので二世皇帝は「え〜い、めんどうくさい、これは馬でよい朕が今日から馬と決めた!」
 このとき鹿だと正直に言った臣下は、当然その邪まな宦官に難癖をつけられて粛清されてしもうたんで以後、宮廷内では本当のことを言うものはいなくなったのじゃよ。

 それが「馬鹿」の語源(由来)じゃ!

※補足@〜邪な宦官とは二世皇帝胡亥のお守り役だった宦官の趙高のことである。始皇帝が行幸中(旅先)で病死した際、 同じく随行していた宰相の李斯に趙高が、「(無能の)胡亥が二世皇帝になれば、李斯様の思い通りの政治ができますぞ」 と陰謀を持ちかけた。この誘いに乗ることで李斯は一生の不覚をとるどころか歴史上の不覚になることになる。 李斯は荀子門下の韓非子と同期生で韓非子は法家理論を韓非子として完成させ、李斯は法家を実務者として実践した、 ともに法家の大家である。始皇帝はこの韓非子を読み、著者に会えたら死んでも悔いないとまで言った。 然し、韓非子は優れた文章家ではあったが、極度などもりであり雄弁な李斯が韓非子の才能に嫉妬して始皇帝に讒言して謀殺してしまった。 始皇帝の行なった統治政策である郡県制、焚書、度量衡等々は、すべて李斯の献策によるものであり、この後、中国が19世紀まで行なった 中央郡県制は、この李斯の政治理論を実践継続したものである。但し、李斯は二世皇帝になった胡亥のあまりの暗愚ぶりに堪らず度々、 諫言をして宦官の趙高は二世皇帝と図って、目障りな宰相、李斯を誅殺してしまう。群臣は有能無比且つ冷徹な宰相、李斯までを葬り去った、 趙高の権勢を恐れて、趙高が「馬」と言えば「鹿」でも「馬」にしてしまったのである。

※補足A〜宦官とは、宮中の裏方、主に後宮で雑用する男性器を切除したオカマ。
つまり去勢された男どもである。それが雑務から事務に精通し、側近として権力を握るようになる。


★バカの連呼
また、仏教用語に「莫迦」というのもあるが、これは梵語が語源で能足りんの意味らしいが反面、 摩訶不思議から桁外れに大きなモノに驚嘆するときに使う意味もあるらしいから、 さしあたって、今ならなんでも「超(ちょー)〜何々」となんでもつけたがったのが 流行った如く、2500年前のインドにも同じような表現が流行ったらしいわい。

なんでもかんでも言葉の頭に「莫迦〜何々」と好んでつけておるうちに、 内容のないモノの代名詞に変化してしもうたようじゃ。それが中国に伝わった頃に 莫迦→馬鹿となったらしい。これは憶測であるが古代インドでも人間の最大の娯楽は セックスであり、この反動で宗教哲学は性悪として禁欲的な思想に分岐して行く過程 で、デカまらを崇拝することが”バカ”らしい〜莫迦でかぃ!〜中国や日本では、 デカまらを「馬並み」と表現することから無用の長物をバカデカイと呼び、 それが愚か者の意と結びついたと思料される。


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