李鴻章の負け惜しみ・・


あれから百幾年が過ぎる・・・
北洋艦隊が黄海の藻くずと消え、
李鴻章の石碑が草に埋もれているのを見る。

白村江で唐水軍に撃滅されて、
李舜臣の亀甲船に苦杯をなめる・…
対外戦争で日本の正規海軍が有史以来の
初勝利をした日清戦争。

講和条約のため中華王朝の宰相が
初めて海を渡り下関に来所した清朝の
李鴻章が
「コレハ何ト言フ河デスカ」と質問したところ、「瀬戸内海」だと聞いて
「日本人ハ、チト大キイ河クライデ海ト呼ブ」とつぶやいた。

舐小路実麿 云々

眠れる獅子の嘆き・・結局、日清戦争を戦ったのは、李鴻章の私兵的北洋軍閥だけであった。
しかし、清朝で李鴻章に代る人材はなく、宰相の座を失脚することはなかった。

李鴻章りこうしょう 「リーホンチャン」1823〜1901 中国、清末の政治家で宰相

安徽省合肥県出身。進士合格(科挙)1847、太平天国の乱で故郷に義勇軍を組織して軍務に従事し、江蘇巡撫1862、淮軍を率いて太平軍の主力を撃破した。ついで両江総督1865となり、捻軍の反乱では、先輩進士である曾国藩の後継となって欽差大臣に就任して反乱を鎮圧した。直隷総督兼北洋大臣1870〜95、内閣大学士1972〜01を務めて長く政権の中枢で実務に精通する。

西欧の軍事技術を導入し北洋海軍を統率、更にその範囲を一般民需としての紡績、運輸、鉱業にも広げて「洋務運動」の先頭に立った。また、外交上の折衝を一手に握り、天津教案(キリスト教排撃運動)、台湾事件、琉球問題、イリ紛争、清仏戦争、朝鮮問題、日清戦争、義和団事件などあらゆる外交問題に関与した。

日清戦争1894〜95の敗北の責任を問われ、権勢の根源というべき北洋軍閥を失い政権から一時後退したが、義和団事件1900〜1901が勃発すると両江総督として外国人保護に努め、列国の出兵により義和団が敗退すると直隷総督に復帰して講和交渉にあたり、最終議定書に調印した2ヶ月後に没する。

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