【質疑】蒙古斑について
>また、ハンガリー人にも蒙古班がでるというのはご存知でしたか?
>ハンガリー人の祖先は西アジアにあり、蒙古や中国と同じ民族だったそうです。
>こちらに来て何人かのハンガリー人に尋ねてみましたが、
>やはりみんな知っていましたよ。
>
【応答】
さね爺じゃ。
余計な余談じゃが、また昔話をしちゃろう。
今から二千年ほど前になるかのう、まだ、ゴビ砂漠のオアシス都市として楼蘭王国などという白人国家があったころじゃ、楼蘭を属国にしていたのが北方の遊牧民で匈奴(フンヌ)という黄色人種であったが、東方で中国を統一した漢帝国も当初は匈奴に貢物などして機嫌をとっておったんじゃが、
前漢の武帝から後漢の光武帝の頃になると国力も充実してきて、西域経営積極策に変わり、西域の支配者である匈奴と戦争状態に入る。特に光武帝の匈奴の内紛を利用した懐柔策が効果があって東匈奴と西匈奴に分離して最期まで漢帝国に抗戦した西匈奴はシルクロードを追われウラルアルタイ山脈を越えて逃亡した。
残った東匈奴は、後の蒙古族の先祖になったと言われておるが、ここでの主役は、アジアを追われた西匈奴で、ヨーロッパに現れた匈奴は、フンヌの語源がもじって、フン族と呼ばれる三世紀ころかのう。
当時、ヨーロッパで蛮族として恐れられていたゲルマン族に大酋長アッチラ率いるフン族が襲いかかり、フン族に押し出されるようにゲルマン民族が大移動を始めたんじゃ。北方に侵攻して定着した匈奴が「フンランド」となり、アッチラ自身は、ローマを目指したが寿命が尽きて死亡したのでその地に率いてきたフン族が定着して「フンガリー」となったじゃろう。
結局、ヨーロッパではこの混乱も原因の一つとなり西ローマ帝国が滅亡、北イタリアのヴェネト地方の住民もフン族の襲撃を避けるために海辺の湿地帯に逃れた結果、ローマ帝国から独立してヴェネチア共和国になり、西ローマ帝国内各地に移住したゲルマン人が各所で国を建設したので、この際、ローマ人とゲルマン人が融合してラテン圏ができる。
従って、「フンガリー」ハンガリー人(現マジャール人)は黄色人種と分布されたのは、ゲルマン人(スキタイ、ゴート等)にフン族(匈奴)との混血子孫だからであって、故に蒙古班が未だにでる理由じゃ。
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