西太后と閔妃(極東三国の興亡)



西太后(せいたいごう)と清朝末期。

西太后は、ライバルである東太后と自分の子である同治帝が相次いで亡くなると自分の妹の子である幼い光緒帝を擁立し、院政による独裁支配を始める。日清戦争中、西太后は海軍費を自分の別荘の建造費にまわし黄海海戦で予算不足で砲弾数の十分でなかった北洋艦隊は壊滅した。戦争に反対だったにも関わらず明治天皇は皇室費を割いて軍費にまわしたそうである。やがて光緒帝は成長すると親政を行い、日本の明治維新を模範に大胆な改革を断行しようとして、これに反発した西太后ら保守派が、戊戌の政変を起こして光緒帝を幽閉し、名前だけの皇帝にしてしまった。

これにより、改革派官僚らは、維新(クーデター)を諦め革命を目指す方向に変り、義和団事件が起り清朝は莫大な賠償金を日本、欧米列強に支払うことになり政体が大きく弱体化する。孫文が日本で中国革命同志会を結成し、西太后及び幽閉されていた光緒帝が相次いで病死。西太后は、「以後、国政を女子に委ねること勿れ」と遺言したが時、既に遅く皇統は光緒帝の甥である宣統帝(ラストエンペラー溥儀)が即位したが、1911年10月10日、中国(清)の武昌で革命派の軍隊が蜂起し辛亥革命(第一次革命)が勃発、革命は全国に波及して翌年、孫文が中華民国初代大総統になる。

第二次革命により孫文が日本に亡命し、二代目大総統の袁世凱は、皇帝に即位しようとして再び全国的な動乱となり第三次革命になり、群雄割拠する軍閥支配で中国は分裂することになる。




閔妃(みんび)と李氏朝鮮末期。

大院君(李氏朝鮮第26代の高宗「李大王」の父親)は、自らが政治の実権を握るため妻の実家である閔氏から女子を選び高宗の妃とした。これが閔妃ミ ン ビである。然し高宗は女官李氏に王子を生ませたので、大院君はこれを王世子にしようとしたが、閔妃が李拓(純宗)を生むとこれを世子とするために大院君と対立し、国王親政を名目に大院君から政権を奪い、実権は閔氏を中心とする一門が掌握した。

時代は、外政では江華条約(日鮮修好条規)で鎖国政策から開国を認めざる得なくなり、内政では東学党の乱が慢性化し農民一揆が頻発していたが、閔妃は宗主国である清国と近代化目ざましい日本を両天秤にかけ両国からの経済援助により、国庫は破綻していたのも関わらず閔妃を中心として毎夜の如く宮中では宴会が行なわれていた。壬午軍乱は国軍の兵士への欠配が続き日本と国交を結んだ閔妃一族が財政を牛耳っていることが原因として反日的反閔氏的反乱が発生し、閔妃も変装して閔氏支配の地域に遁走、日本公使も一時的に本国へ脱出した。これにより李氏朝鮮は大院君が復権し再度、政権を得たが、残された高宗への閔妃の秘策により「大院君の反乱により日本に出兵の口実を与えてしまった。日本の一方的介入を阻止するために清軍の派兵を要請する。」であった。この要請を受けて機敏に反応したのは清国の北洋大臣李鴻章である。江華条約時は対外紛争に忙しかった清国は、李氏朝鮮が直接日本との条約を結ぶことを黙認してしまったが、朝鮮は清国の属国であるいう立場は変えていない。直ちに李鴻章は、馬建忠を朝鮮に派遣し、海軍は北洋、南洋両艦隊水師提督の丁汝昌、呉長慶が仁川港へ到着し米英の軍艦もいて、日本海軍の金剛も停泊していたが、清国海軍の威容に抗すべくもなく、陸兵は袁世凱率いる清軍が朝鮮王宮を確保、既に反乱軍を駆逐、鎮圧しており、馬建忠は大院君を天津に拉致してしまった。

この時点では日本もまだ、清国相手に全面戦争に踏み込めるほどの自信もなく、清国の介入に従って李氏朝鮮からの賠償を受けることで決着するしかなった(斉物浦条約)。これにより清国を利用し政権復帰を果たしたのが閔妃であり、清国をスポンサーとして属国化し次第に反日傾向を深めることになり、更に財政逼迫している上に閔氏一族が私的通貨を製造、大量発行し閔氏のみ富んでも国家は破滅的経済状態に陥ってしまった。憤慨した金玉均らを中心にした日本の明治維新を模範として影響を受けた開化派官僚(両班)が日本の竹添公使と謀り、甲申の変のクーデターを起こしたが袁世凱率いる清軍が来襲、少数劣勢であった日本軍は竹添公使の命令により撤退、金玉均らか開化派の政権奪取は三日天下に終わる。

開化派に対する閔妃の復讐心は凄まじいものがあり、日清戦争を前にして再起を図ろうとした金玉均は、上海で暗殺されて遺体は朝鮮に運ばれてバラバラにされ「謀叛大逆不道人玉均」と高札を掲げられ晒された。その頃、東学党の内乱が本格化して朝鮮政府では鎮圧できず、清国、日本へ東学党鎮圧軍の出兵を要請した。日清両軍により内乱は鎮圧されたが、派兵された日清両軍の撤兵をめぐり両国が紛争し、日清戦争が勃発する。日清戦時中、李氏朝鮮は大院君が執政として政権復帰し、閔妃は政局から遠ざけれたが、親日政権化することを嫌った大院君は清国へ密書を送ったのが発覚し、日本が勝利した結果、大院君は失脚し、その間隙を狙って閔妃一族が復権した。

閔妃は清国の敗戦により、今度はロシアに接近し、日露両国を天秤に図り、両国の支援を競争させて利用することによって再び政局を運営し出した。このことは、日本政府に閔妃排除を決意させるに至り、日本政府は新任公使の三浦梧楼に意を含めて着任させた。三浦公使の謀略により、大院君を再度、担ぎ出そうとしたクーデター事件を発生させ、その混乱に乗じて日本人浪人などの民間人を王宮に乱入させて閔妃の暗殺を実行した(1895年10月8日)。そのことを知った列強は、英国はロシアの南下政策対抗上、日本と結んでおり、同じく米国も黙過した。ロシアは、王妃を殺されて失意にあった高宗を取り込み一気にロシアの勢力を朝鮮に浸透させた。三浦公使は、更迭されて日本で形式的裁判を受けたのみで、その後の日露戦争で、政局に復帰する。日露戦争に勝利した日本は、一時、高宗を大韓帝国皇帝に祀り上げて自主独立を宣言させるが、保護国化し、最期の領議政(宰相)李完用が日韓併合条約(1910年)に調印し、李朝は滅亡して朝鮮は大日本帝国の一部となった。

【さね爺じゃ】〜極東の近代史において中国と朝鮮の二ヶ国が西太后と閔妃という女傑が国を専制支配し、隣国日本の明治維新を手本にして近代化する気運が芽生えながら、この二人の女傑の保守性から時代に遅れをとってしまったのは興味深い、まさに傾国の美人。閔妃は西太后と14歳違いで若いが同時代の人である。因みに今の大韓民国の国旗である太極旗は閔妃に惨殺された金玉均が考案したそうじゃ。


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