日本のいちばん長い日

(それぞれの終戦記念日)

【1】日本のいちばん長い日
1945年(昭和20年)8月9日の御前会議で、ポツダム宣言受諾について東郷外相と阿南陸相の意見が対立した。東郷外相を支持したのが米内海相と平沼枢密院議長。阿南陸相支持は、梅津参謀総長と豊田軍令部長。この最高戦争指導者会議のメンバーは、7人であと一人が鈴木首相である。鈴木首相がどちらかに賛成すれば多数決で決定するわけであるが、鈴木首相は陛下の御前に進み出て聖断を仰いだ。天皇は、東郷外相のポツダム宣言受諾に賛成し、聖断が閣議にも伝えられて日本の降伏が閣議決定された。所謂、終戦のご聖断であるが、当時の大日帝国本憲法でも天皇は、内閣で決められたことを形式上裁可するもので自らの意思を表明して判断されるのは憲法違反になる。然しながら、神聖にして侵すべからずとは言え、単なる閣議決定では、陸海軍が従わない蓋然性が極めて強い。この鈴木首相の奇策で敗戦時の内乱を回避することになるが、混乱がなかったわけではない。

8月14日の御前会議では、陸軍の不穏な動きや情報が漏れ民間の右翼が騒がしくなり、平沼議長が動揺して陛下に向かって、「ご聖断は天皇の責任になりますぞ」と翻意を促したが、天皇の終戦の意思は変わらなかった。陸軍内部では、天皇らしくない天皇に国体は決められないやら、海軍でも大西中将が陛下を叱りつけてでも言うことをきかせろ!などと暴言を吐くようになった。阿南陸相は、帝都における実力部隊を率いる梅津参謀総長と田中東部軍司令官、森近衛師団長に蜂起してクーデターをもちかけたが拒否される。同じく、継戦派だった海軍の豊田軍令部長は、米内海相に「大命が下された。この期に及んで国土を戦場に艦船のない海軍が陸軍指揮下でまだ戦うのか」と説得されて戦争継続は諦めていた。

御前会議の席上、阿南陸相も天皇に頼まれて継戦を断念した。正規軍の実力部隊が動かなければ陸相としては如何ともし難い。陸軍省で有志だけでもクーデターを決行しようという将校らに「この阿南を斬ってからやれ」と自重を促した。

然し、陸軍省軍務課の畑中少佐らは納得せず、近衛師団の古賀参謀に天皇を幽閉して日光にいる皇太子を担ぎ出して摂政にして継戦するクーデターを画策。そのために先ず、皇居内に保管されていると見られる玉音盤を捜索して接取し、玉音放送を阻止しようとした。森近衛師団長のもとへ不破東部軍参謀がやって来て「本省の若い連中が東部軍の決起を要請しに来る妙な動きがある」と忠告した。森師団長は、若い者の気持ちはわからぬでもないが、近衛師団は軽挙妄動することはないと答えている。
そのため、深夜、畑中少佐以下三名が近衛師団長室にいた森師団長とたまたま一緒にいた第二総軍参謀の白石中佐を殺害し、ニセの師団命令により近衛歩兵第二連隊が出動し、宮城内で宮内省の皇宮警士を坂下門内に集め武装解除させた。皇宮警察だけは、226事件以来、拳銃を所持するようになっていたが拳銃とサーベルでは軍隊には抗し難し。天皇のいる吹上御所にも近衛師団の軽機関銃が向けられた。これは古賀参謀と内通していた近衛歩兵第二連隊の佐藤、北畠両大隊長の命令で行われたもので、玉音放送に伴う警備出動と思ってた芳賀第二連隊長が異様な状況に、佐藤大隊長にやめるよう命じたところ、古賀参謀の命令ですから従えないと抗命した。驚いた芳賀連隊長は「指揮官は古賀(参謀)でなく俺だ(連隊長)!この師団命令もおかしい」と異変に気づき、師団司令部に急行し、森師団長に会おうとしたが、本省から指導のために応援に来ているという畑中少佐らが阻止しようとするので、「俺の方が上官だ!どけ」と強引に師団長室に入ると師団長以下二名が殺害されていた。

直ちに東部軍に通報し、宮城に駆けつけて来た田中東部軍司令官が第二連隊に続いて出動して来た近衛歩兵第一連隊に帰隊を命じて、御所へ参内し、近衛師団の叛乱が終息したことを報告した。

古賀参謀、畑中少佐らは遁走し、宮城外で正午の玉音放送直後に自害した。


【2】戦勝敗?北千島!
【さね爺じゃ】〜今から半世紀以上の昔、昭和20年8月15日。わしは、第91師団司令部の通信兵として北千島の幌延(パラムシル)島において終戦の玉音放送を聞いたんじゃ。

17日になり師団長の堤中将は指揮下の各大隊長以上、直轄各部隊長、航空、船舶、海軍各部隊長及び民間の漁業関係者を招集して、今後の方針を検討した結果、北海道に本拠がある第5方面軍から「一切の戦闘行動を停止、やむを得ない自衛行動を妨げず」との命令を受けたので、師団長は「15日から米軍による攻撃はないが、付近でのソ連軍の行動が活発になっているので、もしソ連軍が上陸した場合は戦闘を行わず、爾後の命令指示に従い行動せよ」と指示した。 みんなとりあえず、戦争は終わったし、故郷に帰る話題で盛り上がっておった。その頃、千島列島最北端、幌延島に北接する占守(シュムシュ)島北部の監視哨から「対岸カムチャッカ半島沿岸に多数の上陸用舟艇が集結している」と報告が入って来たので直ちに師団長に報告すると当該防衛部隊の独立歩兵第282大隊長村上少佐を呼び「終戦になってるから、軽挙妄動してはならぬ。お前のところが最前線だから、軍使を真っ先に迎えることになるかも知れん。その時は紛争を起こさず司令部に先ず連絡せよ」と指示して村上大隊長を任地に急行させた。

翌18日午前1時過ぎ頃、対岸のロパトカ岬から砲撃を受けた村上大隊では、「敵輸送船団らしきもの発見!敵上陸用舟艇発見!敵上陸、兵力数千!」と急報が相次いだ。村上大隊長は、「夜中に軍使が来ることはない、対岸の海岸砲が掩護射撃をしていることからこれは強襲上陸である」と判断し射撃を命じた。 以上の内容で師団司令部に一報があり「…敵の国籍不明」とあった。師団参謀らは終戦三日も経ってからの攻撃とは考えられない?手違いで軍使と戦闘になったのではないかと意見もあったが、然し、師団長が一喝、「こんな夜中に艦砲射撃をしながらやって来るのが何が軍使じゃ!」と怒鳴り、全部隊に戦闘態勢をとるように下命した。師団主力の杉野・佐藤両旅団が占守島に進出し、優勢な兵力をもって敵を撃滅する態勢が整った・・・というのも、当初の戦闘で上陸戦に不慣れなソ連軍の不手際が目立ち、最初に上陸させる兵器や装備を奥に積み込み混乱したり、日本軍の砲撃により指揮官乗船の舟艇が真っ先に撃沈されるなど水際で甚大な被害を受け、火力の揚陸に手間取り、上陸したソ連軍も孤立した状態であったからである。

ところが、18日午後、第5方面軍から「攻撃を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との命令が届き、致し方なく戦況優勢のまま攻勢から防衛に転じる指示を各部隊に打電したんじゃ。今、考えれば第5方面軍の命令を握り潰しておけば、少なくとも歯舞、色丹、択捉、国後の北方四島がソ連に火事場泥棒されることはなかったんじゃないかと思っておる。

師団司令部付きの長島大尉が随員2名、護衛兵10名を率いて白旗を掲げて敵陣に向かったが、ソ連軍に一斉射撃されて散り散りになってしもうた。おそらくソ連側では、負けっぱなしで停戦するわけにも行かず、防御に転じた日本軍を少しでも叩き、戦果として実績稼ぎをしなければならなかったんじゃろう。元々、降伏している日本軍を急襲して武力進駐しようとした意図そのものも遅れて対日戦に参戦したソ連の戦闘実績稼ぎの駆け込みの攻撃じゃ。もっとも終戦三日も過ぎてからの大規模な上陸作戦じゃ駈け込みというより明らかに違法行為でネコババという方がふさわしいじゃろう。

19日ようやくソ連軍は、攻勢に転じ優勢な形勢になったところで日本軍の降伏交渉を受け入れた。この戦闘被害について日本側である第91師団の将兵はシベリアに抑留されることになり記録に残らなかったが、ソ連側のカムチャッカ防衛軍及び第2極東方面軍第101狙撃師団によれば日本軍の死傷者1018名、ソ連軍1567名となっておるそうじゃ、然し、ソ連軍は戦果をクレムリンに誇大報告し、被害を過少報告する。それでもこの北千島での戦闘は満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であったらしく、樺太での戦闘結果を含めて、スターリンは北海道への侵攻を断念せざる得なくなってしもうた。

わしは、ロスケどもの捕虜になると聞いて、脱走したよ。丁度、北千島の漁業関係女子従業員500名をソ連占領事前に逃がすために北海道に出発した船に潜り込んで。


【3】国破れて山河在り・・・(それぞれの終戦記念日)
【さね爺じゃ】〜終戦当時は、え〜と??頭がボケていてよく思い出せんが確かまだ子供じゃった。 ・・・あれはもう昭和の御世になっておって大陸にゃぁ四億の民がおる。とかなんとか言われて満州へ移民したんじゃ。村の二男、三男が家族を連れてのう、なんせ自分の家や土地が持てるんじゃ外地と言えどももう小作人じゃねぇど。

ところが、日本が戦争に負けてしもうた。関東軍から避難命令があって、ソ連軍が攻めて来るというんじゃ。みんな召集されておって目ぼしい男衆は、年配者と子供しかおらん。老人と女、子供だけの開拓団になっておった。

駅で避難列車を待っとる間にじつは列車に乗るとシベリアに連れて行かれるという噂が広がり各地から集まった開拓団は、列車に乗るグループと歩いて逃げるグループに分かれてしもうた。わしゃ子供ごころに歩くのは嫌じゃと言ったんじゃが、なんせ東京から大阪まで歩けと言われただけで卒倒しそうなのに満州里から大連まで歩いて行って船に乗ると言うんじゃから、無謀な話しじゃ、ろくな道もなく、満州の山や荒野が果てしなく続き、歩くだけでも半端じゃないのに、狼や匪賊に襲われる。案の定、すぐに山賊に襲われて身ぐるみ奪われて人数も半減する。そこへ山が動いておるかと思うようなソ連軍の戦車がやって来て殺されたくなかったらソ連軍基地に若い女を連れて来いというんじゃ。

非常にもみんなが独身でその場に家族がいない女や未亡人などに土下座して、お願いします、お頼み申しますと頼み込まれて、泣く泣く彼女らはソ連軍基地に連れて行かれたんじゃ。約束通り三日後には解放されて食糧をもらい戻って来たがソ連軍兵士に寄ってたかって蜂の巣にされボロボロになって憔悴しきっていた。見た目に気の毒そうじゃったが大人たちの態度は豹変して彼女らを白い目で見て声もろくに掛けんようになりよった。

満人の村に辿り着くと日本人の子供なら優秀だろうから養子にして立派に育てるからおいて行けという。赤ん坊を背負って幼児の手をひっぱている母親などはもう体力の限界、生水にあたり下痢したりで乳も出ない、このままでは小さな赤ん坊から先に死んでしまうだろう・・・『きっと迎えに来るからね・・・』〜残留孤児である。おらが嫁になれ!こういう状況下では家族単位で行動するその場に連れ合いのいない娘や未亡人、年頃の娘がいれば母親や弟妹たちだけでも無事帰国して下さいと満人の嫁になるかわりにカネや食糧をもらい飢えをしのげた。〜残留婦人である。

国民党軍と中共の八路軍の戦闘がはじまり、どこかの柵で足止めされた、戦闘が終わったかと思うと八路軍の兵士に見つかり「ハヤク逃げろ」と片ごとの日本語で言われて慌てて川を渡って対岸に上がったところで空に銃を向けて撃っておった。

・・・なんとか家族全員が無事に帰り着けば大変じゃった死ぬかと思ったと苦労話にもなるが、一人でも残留したり欠けたり死んだりした家族は辛くて苦労話もしたくないほど悲惨な思いをしちょるじゃろう。今でも中国から残留孤児が帰国したニュースを見ると一目を憚らず涙が溢れてしまうんじゃ。

【4】最後の特攻

昭和20年8月16日〜大分県の宇佐航空隊において第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が彗星艦爆を直卒して一億玉砕の先駆けとして沖縄方面に展開する米艦船への特攻を行う!と命令し幕僚以下は、(停戦後の攻撃は重大な軍令違反であり死刑)思いとどまるよう説得に努めたが意志は固く、中津留達雄大尉を隊長に彗星艦爆11機22名が宇垣纏中将の出撃に従った。中津留達雄大尉の一番機に遠藤秋章飛曹長と宇垣纏中将が同乗した。

ここからが得意の「夢物語」とやらをさせてもらうとして、 沖縄に到達した宇垣中将同乗の中津留大尉の彗星艦爆は米軍の伊平屋島のキヤンプで対空護衛艦デストロイヤー乗組員らが上陸し戦勝の祝賀パーティで盛り上がっている米軍兵士たちを発見した。対空護衛艦デストロイヤーも防衛態勢が解除されており、多くの乗組員が上陸して宴会の真っ最中であり、この宇垣の特攻機の侵入を見逃してしまい、その上に「カミカゼだぁーー!」とパニック状態に陥ってしまった。

眼下の米兵たちの混乱振りを機内から眺めていた宇垣中将は「あのヤンキーどもに体当たりしろ!」、偵察員の遠藤飛曹長は「敵は戦闘行動にありません!・・・やっぱし戦争は終わってるんです。」、操縦桿を握っている中津留大尉は黙って旋回を繰り返す、もう燃料は残ってなかった。「貴様らぁー!なにをぐずぐずしてるんだ!命令に逆らうつもりか!」と宇垣中将が怒鳴ったが、中津留大尉は「自分も軍人であります、戦闘でない攻撃はできません!」、遠藤飛曹長も「自分もそう思います」と答えた。「貴様らー国賊だ!」と宇垣中将が金切り声をあげたが、「長官こそ国賊です!この期に及んでの攻撃は悪あがきで、帝国海軍の名を汚す!!」

・・・彗星艦爆は米兵たちの上空を旋回した後に海岸に真直ぐ飛んで行き墜落した。 この米軍の証言は8月15日の米側の日付であり、日本側の8月16日の日付とは誤差があり、そのため15日、16日説があるが、軍令部では15日に遡っての特攻として上記の彗星艦爆の隊員で戦死した者に二階級昇進を認めたが、宇垣中将だけは戦死とも認めていない。単なる自決扱いにしたようであることから、事実は停戦命令後の16日出撃説が正しいようじゃ。

【5】山西軍閥に野望を賭けて乙(陥つ)軍

【さね爺じゃ】
1945年(昭和20年)夏。

わしは、中国山西省にあった軍肝いりの国策企業である山西産業株式会社の河本社長の秘書をやっておった。河本社長は山西省を所管する北支那方面軍第一軍花谷参謀長と旧知の仲で山西での(日系)財閥勢力を駆逐するように期待されて社長に就任にた。期待通り河本社長は山西財界への軍統制強化も成功した。花谷参謀長の後任の山岡参謀長から河本社長は第一軍の山西省軍閥首領の閻錫山との対伯工作(閻錫山懐柔工作)が破談になってしまったので民間人の立場で引き続き交渉を務めるよう依頼された。
閻錫山は、山西軍閥として勢力を誇っていたが中共軍の勃興と蒋介石の国民党軍の北伐により地盤が揺らいでいたところに日本軍の侵出により、ついに国民党軍傘下に加わり第二戦区(以後山西軍と呼称)司令官になったことから日本軍と敵対することになった。然し、閻錫山は日本の陸軍士官学校に留学していたこともあり知日派である。終戦前から河本社長らにソ連の参戦、ポツダム宣言受諾交渉について澄田第一軍司令官に伝えてくれと情報提供があった。山西省の首府である太原の山西産業本社で第一軍澄田軍司令官と山岡参謀長は閻錫山と会談し、戦後の処遇について話し合った。

河本社長から聞いた話しでは、閻錫山は将来、山西軍閥として中国国民党から独立するので日本軍の協力してもらいたいという趣旨だったそうである。河本社長も敗戦した「本国に帰国して米軍に支配されるくらいならこの山西でもう一旗あげようじゃないか!お前も残ってくれるよな!」と強引に誘われた。わしは国に帰りたいので嫌じゃったが雰囲気に呑まれて頷いてしもうた。この雰囲気は第一軍でも同じようであった。

日本の降伏に伴い第一軍にも総軍(支那派遣軍)の武装解除に従う命令が北支那方面軍を通じて示達された。山西省での第一軍の武装解除を担当する中国軍は閻錫山率いる山西軍である。然し抵抗したのは日本軍ではなく中共の八路軍であり山西の日本軍を武装解除するのは八路軍だと太原を包囲し不穏な状況になった。このためいよいよ日本軍の協力が必要になった閻錫山は、第一軍に武装解除の際に兵器引継書の二重帳簿を作成するように要求し、国民党には武装解除したように報告して第一軍の一部を鉄道警備隊として残留すれば第一軍首脳は戦犯に問わず、残留日本軍には兵に至るまで3階級昇進させるという条件を提示して来た。残留日本軍については義勇軍として山西軍に編入するが帰国を希望する兵は武装解除して捕虜として扱うと言うのである。

澄田軍司令官と山岡参謀長は閻錫山の誘いの乗り、残留者を募ったろころ元泉兵団長、岩田少佐など希望者もいて、特務隊を編成したがその数、第一軍将兵6万のうち1万に達した。さすがにこの動きは岡村支那派遣軍総司令官の察知するところとなり、第一軍の状況確認と全将兵帰還命令の徹底を図るために支那派遣軍参謀宮崎少佐が太原に派遣されて来た。宮崎少佐は直ちに第一軍首脳と在留邦人有力者〜河本社長等を集めて激しい剣幕で難詰した「勝手に残留して山西軍の義勇軍になるのは総軍への命令違反です!こんなことすれば脱走になるわかっているんですか!」澄田軍司令官と山岡参謀長は憮然とて「おい!階級もわきまえずに総軍参謀だからと偉そうに言うなよ!閻錫山は国民党からの指示で日本軍の協力を求めて来てんだよ、降伏したんだから逆らえないだろう!」

宮崎少佐は河本社長に向かって閻錫山と会談したいと頼んだが河本社長は「俺も現役時代は陸軍大佐でも、今は民間人!軍の進退に関与したくない」と断ったが、わしに「お前が連れて行ってやれ」と言って出て行った。宮崎少佐は「あんな上官らの胡散臭い野望に煽られる将兵が気の毒だ。君も民間人だが敗戦した日本に帰って国の復興に貢献してくれ」と嘆いていた。宮崎少佐は閻錫山に掛け合って国民党の中国陸軍総司令官何応欽の命令を第一軍に秘匿している事実を認めさせて特務隊の元泉兵団長、岩田少佐を解任させた。宮崎少佐の説得により残留希望者は2千8百名に減り、澄田軍司令官は将兵の規模から高級参謀の今村大佐に残留部隊の指揮を任せた。

残留日本兵と民間人が集まった宴席で城野中尉というのが「うちの中隊は一人も脱落せずに残った!今村大佐とともに山西軍を率いて国府軍(国民党)やパーロ(八路軍)と対峙してこの支那の大地で三国志じゃぁぁ!」と景気のいいことを吹いておった。この城野中尉には2年後に会ったが山西軍副指令という肩書きで、わしに向かって「おい!民間人まだ山西でうろちょろしておったか!どうだ、山西軍に入れば将校にしてやるぞ〜、お前は戦略がないからいつまでもウダツが上がらんのよ、俺は山西軍の営長(兵団長)会議に出たが支那人どもの剛毅なことよ、共匪どもの村には三光作戦って言ってなぁ〜やりたい放題で日本軍みたいな堅苦しいこと言われんからおもろいで〜」と虐殺話しを自慢げにペラペラ喋るので不愉快になった。

こんな中国軍に編入されて堕落した日本軍に幻滅して、河本社長に帰国したいと申し出てまだ会社の景気のいいうちに退職金をもらい日本に帰ったんじゃが、昭和24年ごろか?国共内戦で国民党が負けて台湾に逃走したと聞いた。風の便りに澄田軍司令官と山岡参謀長は八路軍の攻撃で太原陥落前に閻錫山の手引きで逃亡帰国し、元泉兵団長、岩田少佐は戦死、今村大佐は「閻錫山閣下に騙された」と嘆き自決、残留日本軍は壊滅的打撃を受けて中共の捕虜になっていると聞いた。あの三国志やらと大ぼら吹いておった城野中尉は最後の戦犯になったとか、河本社長も最期は中共の監獄で獄死したそうじゃ。

【6】ニセ師団命令

【さね爺じゃ】
2011年・平成23年の暑い夏になっても想い出す…

66年前の今日も猛暑続きの暑い日じゃった。わしはその頃、宮内省皇宮警察部の皇宮警手として皇居坂下門派出所に勤務しておったんよ。14日の昼から近衛師団歩兵第二連隊が警戒出動と称して芳賀連隊長以下が皇居へ入門して来たんじゃ。通常、近衛師団は第一・第二連隊の六個大隊が交代で一個大隊が皇居警備を担当することになっておるが、この日、非番の第一大隊と合流して第二連隊総がかりで皇居に出動して来たことになる。

異様な雰囲気ではあるが、噂にポツダム宣言を受諾して日本は降伏するそうだという話があり、明日の正午に陛下の重大放送があると聞いておったから、必要な警備強化対応じゃろうとは思っておったが、深夜零時前後だったが、宮内省庁舎供溜り方向から発進しようとした官用車が近衛兵に制止され降車させられた下村情報局総裁が銃剣を突きつけられて庁舎内へ連行されるのを目撃した。直ちに有線電話で通報しようとしたところ、ブチッ!と駆けつけて来た近衛兵に銃剣で電話線断ち切られた。中尉の階級をつけたのが「守衛司令官(近衛師団長森中将)の指示で只今から電話はいかなる用件でも使用を禁じる」と言うんよ、「命令系統が違います」と口答えすると軍の命令に従えとぬかして立ち去りおった。こりゃぁ叛乱じゃねーのか?と思い詰所で仮眠中の休憩員を起こして何人かの皇宮警手が坂下門内に集まって来たところに別の官用車が出門しようとしたので確認すると石渡宮内相(宮内庁長官)だったので先の下村情報局総裁が拘束されたことを報告すると庁舎へ引返した。

暫くして、近衛兵がやって来て拳銃・サーベル等の武器を取り上げた。軍隊の軽機関銃や銃剣を突きつけられたんじゃ、警察力じゃぁ抵抗しようもない、ズボンまで脱げというんで近衛兵の中に顔見知りの絵内伍長がいたので「おぃ、勘弁してくれよ〜なんでズボンまで脱がすんじゃ変態趣味か?」と声をかけると、「陛下を人質にして敵に降伏しようと企む反乱軍がおるらしい」と答えるので「この状況で誰が反乱しちょる方じゃぁぁ」「だよなぁ・・・」

以後はその後に聞いた話じゃが・・・ 佐藤第三大隊長が皇居内各所で皇宮警察を武装解除させているのを巡視で見かけた芳賀第二連隊長が異変に気づき、第三大隊は直ちに帰隊すべしと伝令の工藤少尉が伝達したところ「古賀(近衛)参謀の命令しか従わない」と答えたので吃驚して工藤少尉が芳賀連隊長に報告。「なにー!誰に向って言ってんだー指揮官は俺だぁ」そこへ午前2時発の近衛師団命令が来たので見ると皇居の出入及び通信網の遮断等々があったので連隊長である自分をより早く指揮下の大隊長が古賀参謀の指示で師団命令を実施しているのも妙であり、佐藤大隊長の抗命も怪しい?

午前3時、芳賀連隊長は、「おかしい?北の丸(近衛師団司令部)の師団長のところへ確かめに行く」と師団司令部に行ったところ、師団長室に入ろうとすると陸軍省軍務局から応援に来ているという畑中少佐が「お待ち下さい」と阻止するので連隊長は、「なんで本省の貴様の許可がいるんだ?第一に大佐である俺の方が上官だ!」と怒鳴ると横から古賀参謀が「師団長閣下は亡くなられましたから、今後は師団長代理として芳賀大佐が近衛師団の指揮官です。」と告げるので「死なれた?参謀長はどうした?とにかくそこをどけー!」と畑中少佐を押しのけて師団長室に入ると森師団長と居合わせていた第二総軍参謀白石中佐(杉山第二総軍司令官の元帥会議での上京に同行していた)の二名が射殺斬殺されていて血の海であった。

芳賀連隊長は驚愕して
「ひぇ〜!お前ら師団長殺害容疑で逮捕する!叛乱だぁ東部軍に通報しろ!!」と言って師団長室を飛出して来た。

後から、先輩の側衛だった小松皇宮警部に聞いたところによると皇居吹上御苑内の陛下の御文庫にまで近衛兵が乱入し御座所配置の皇宮警察の武装解除を強要する押し問答の状況を陛下が知り「朕が自らあの兵どもを説得する」とお出まし寸前の午前5時前後に「気をつけー!」と号令がかかり東部軍司令官田中大将が叛乱軍鎮圧のために駆けつけて来たそうじゃ。

…66年前の暑い夏の「日本のいちばん長い日」の一幕を想い出す今日明日。

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