遣唐留学生「井真成」の碑文


さね爺じゃ。
わしは、西暦の717年、大和朝廷の遣唐使船で留学生に選ばれて大唐国に派遣されることになった。同期生の中に吉備真備きびの まきび、阿倍仲麻呂と井上真成ま な りなどがおったよ。真備は、備前、備後を領有する大豪族の一族で、仲麻呂は、阿部水軍を率いる有力氏族の出。わしは名もない氏族であったが、朝廷から広く下々にも先進文明をわが国に伝えるためという方針で選考されたんじゃが、井上真成は、下級氏族ながら藤井氏を本家とする立派な豪族、但し、真成は、藤井氏の部族に属する井上氏の出身じゃが、一族の中でもっとも優秀な者をと選抜された秀才じゃ。出発の日は難波の津に朝廷から高官や遣唐使船に乗り込む者の親類縁者が集まり盛大に壮行式が行なわれ見送られたもんじゃ。

その後、無事に唐の都、長安(現、西京)に辿り着くことが出来たが、わしは世界の超大国の首都、長安に圧倒された、今なら集団就職で地方の田舎者が上京して初めて銀座の大通りを歩いてまわりに高いビルが立ち並ぶのを見て未来都市に来たような気分になるようなもんかのう。玄宗皇帝すら国を傾けたという楊貴妃みたいな白人女に夢中になったご時世じゃった。当然、わしも楊貴妃とまでは敵わんまでも白系のトルキスタン、ペルシャ人女に入れあげて所持金の砂金も使い果たし身を持ち崩してしまい、もう国に帰る気力すら失せてしもうておった。

734年頃じゃったか、尚書府の役人が胡人の娼婦宿に寝泊りしておった、わしを見つけ出し出頭するよう命令された。尚書官が汝の留学時の同期生である井真成が住まいする官舎で急病のために死去いたした。ついては玄宗皇帝から志し半ば異郷の地で客死した将来ある井真成を惜しまれて、従五品相当の官職を追贈されることになったので墓碑に書込まれる墓誌内容を確認してもらいた。ということであった。同期生の阿倍仲麻呂が当時、長安にいなかったので役所の同僚から聞いて、尚書官が墓誌を作成したらしいが、疑問点もあったので、同国人のわしに確認を求めて来たというこっちゃ。

尚書官: 姓は「井」名は「真成」で良いのか?

さね爺: 名は「真成」ですが、姓は、「井上」で氏が「藤井」です。

尚書官: 氏姓?こちらの通称は「井」であるし、氏でも姓でも「井」なら「井」でよかろう。

さね爺: 「はぃ・・・」

尚書官: 汝らの国名は「倭」ではないのか?先般の尚書の記録では、「近頃、倭から国号を日本と改め、大王を天皇などと号すと通告があった」旨、新羅から通報があっったので、国名を日本にしたが間違いないか?

さね爺: 「間違いございません」

確か天武天皇が飛鳥浄御ヶ原令で国名を日本、大王を天皇に改めたとあったので、既に唐でも倭国の正式名が「日本」であることが認知されておったようじゃ。それにしても同じ留学生なれど井上真成は、立派なもんじゃ、遊び呆けたこのわしと違って猛勉強して死に際して皇帝から官職を追贈されるとは・・・然も、この墓誌内容には感激した。

「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、懸命に努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」

「・・・魂は故郷に帰るにちがいない」であるか・・・漢文らしい表現にしてもここ異国の中国で井上真成の志を慮ってくれるとは有難いものである。わしに路銀はなかったが、井上真成が帰国する予定だった遣唐使船に真成の分の空席ができて、わしは日本に帰ることができた。井上真成と同じくエリートコースを歩んでいた阿倍仲麻呂は、遣唐使船の遭難などで帰国を果たせず大唐国の節度使(地方長官)まで出世したそうであるが、故郷を思い見出しの歌をわしに託した。


Sanemaro